Facing You(キース・ジャレット)

Facing  You(キース・ジャレット)
Facing You(キース・ジャレット)

1972年のことだと思う。大阪の上本町6丁目から谷町9丁目に至る地下道を歩いていた。仕事を終え、事務所への帰り道のことである。

9丁目に近づいたころ、どこからかピアノの音が聞こえ、進むに従って大きくなる。それは地上への出口階段の方から、まるでそこで演奏しているほどの臨場感で迫ってきた。ジャズらしいことはわかるが、初めての音色やリズム、フレージングであった。

階段を上ると地上への踊り場に当たるところにジャズ喫茶があり、扉は開け放たれていた。真正面からその音を受けた私はそのまま招かれるように入って行った。『SUB』という名であった。

ほんものの楽器以上の音量を放っている室内は狭く、おまけに大きなスピーカーが並び、ベースが壁に掛けてあったりするものだから、客の座る場所はわずかだ。閉店の間に、練習をするのだろう、喫茶店というよりは音楽部の部室といった趣があった。

柱に今かかっているレコードのジャケットが飾られている。暗くてよくわからない。とにかく最後まで聞く、聞くというより圧倒的に聞かされてしまった,と言う方が本当のところだった。50年代のスタンダードを主に聞いていた私にはカルチャーショックと言ってもいいくらいの体験であった。

キース・ジャレットを私に会わせてくれたのが『SUB』である。店の扉を閉めて、通る人たちへの配慮がなされていれば、私はキースと知り合えなかったかも知れない。扉を開け放って営業していた店主の心意気に感謝している。(10年以上前に訪れたときには扉を閉めて、おとなしくなっていた。オーナーが変わったのだろうか。時代の節度がそうさせたのだろうか)

曲が終わると私は、ジャケットに近寄り、タイトルとピアニストの名を胸に刻み、梅田のレコード店に走り、購入したのである。<Facing You> 以後、彼のレコードを買い続け、1981年の武道館での来日公演を、東京在住の客として聞く機会を得た。

若い頃はバンドの演奏も聞いたが、今ではほとんどソロである。ブレーメン、ローザンヌ、ケルン、ウイーン・・なかでも好きなのはブレゲンツでのソロ演奏である。

彼の音楽にはソウルや黒人霊歌などの面影を感じるが、全体的な印象からいえば、その無国籍性と私が勝手に呼んでいるものがある。専門的にはそのリズムの取り方や、和声からの分析が出来るのだろうが、私はただ好きである、というに過ぎないから、本当のところはわからない。

だが彼の演奏からはいつも、海を渡り、高い山を越え、また深い森の木々の間を抜ける、といった世界中に吹いている風のさまざまな姿を感じる。炎から舞い上がる熱い風、行き先を模索しながらエネルギーを貯めて行く風とリズム。

彼は没我状態のようにピアノの上にかがみこみ、またあのうなり声を出す、それなのに、彼のそばにある、眼には見えない部屋の扉を開け放ち、聞く私たちの前に音楽を、彼のソウルを差し出しているかのようである。この開放性がいい。

『SUB』の店主はいち早く彼の良さがどこにあるかを見つけ、あのように店の扉を開いていたのかも知れない。風に巻き込まれたあの場所と再び出会いたいと、しきりに思う。