グレン・グールド

グレン・グールド 「パルティータ」

彼は孤独のアリアを歌っているのか?
iPodで彼の演奏を聴きながら、これを書き始めている。バッハの「パルティータ」である。

窓は開かれている。部屋の中ではグールドがピアノに向かい、バッハとともに歌っている。私は窓の外に立ち、壁に背をもたれさせて聴いている。目の前では花々が咲き、湖へとつづく林の樹々が風にそよぎ、ピアノの音と混じる。

たくさんのファンがいて、すでにその音楽や著作、ラジオ放送などの表現行為についてもたくさんのエッセイや著作があふれているグールドについて、いまさら何を書き加えることなどあるだろうかと、そう思い続けて、書くことをためらってきた。つい最近までは。

彼が弾くバッハを聴いていると、家族に愛され、人々に親しまれ、当代随一のオルガニストとして町中知らない人はいない、そのバッハが息子たちに優しく練習曲を教え、通りを歩く人々がそれを窓越しに目にしたり、立ち止まって耳を傾ける風景が浮かんでくる。決して音楽室のあの「大バッハ」からくるいかめしい印象ではない。

台所からは食事の支度や、迫りくる宗教行事の準備で、女たちが忙しくしている物音や、おしゃべりしたりする声がバッハや息子たちにも聞こえている。

成長した息子に、もうお父さんの作曲技法は時代遅れだよ、といったことを言われたらしいバッハは、それでも晩年、タイトルこそ後に『フーガの技法』と名付けられた未完の作品で、「対位法」の見本のような作品を創作するが、彼にとっては「対位法」は「技法」である以前に、生き方であり、ルター派の信仰者としての神との対話であったようにも思う。

ベートーベンもまた、もう耳が聞こえなくなった頃の作品、ピアノソナタ第31番で対位法(フーガ)を使っている。グールドの弾く第3楽章はまるで人生の集大成として、何かをこの世界に対して伝えたいという欲動に支えられているかのようである。

全曲ではないけれど、グールドはオルガンとピアノで『フーガの技法』を弾いている。『平均律第2集』同様、この曲はややもすれば退屈する演奏に出会うことがあるが、彼は実に心地よく弾いてくれる。演奏技術には絶対的な自信をもっていた彼は、その多くの時間を作品の構造分析に費やしたようである。(ピアノ自体の練習はわずかだったとか)

だが、いざ演奏に入ってしまうと、音楽が生まれる「いま・ここ」において、まるで自分が育てた小鳥を空に放つように、すべてを解き放つ。そして聴き手を誘うかのように、みずから旋律を口ずさむ。Contrapunctus (対位法)#14をピアノで弾いた演奏を聴くと、湖に浮かんだ小舟に乗って、その船縁を打つ小刻みな波の揺れに身を任せているような気持ちになる。それだけではない、右手左手の旋律と彼の声、それは「気に入ったらあなたも一緒に歌わないか」と言っているようだ。

「音楽は対話なんだ。この右手と左手が交わす旋律同士のように」

古典派からロマン派へと主旋律と和声が尊重される時代になっても、いつもこの対位法はその流れを失わなかった。人は自分自身との対話をするように、他者や世界とも対話をしている、そのことからは逃れられないのだと、私がグールドの音楽から得たものはそのことだったように思える。

彼は演奏会からは身を引き、録音音楽に専念した。それは彼自身が言うように、聴きたい人が聴きたい音楽を聴きたい時に聴くことが、音楽の本質だからだ。それは対話という積極的な姿勢を音楽はもっているということにほかならない。

グールドは孤独であったかもしれない。しかし、演奏している時の彼は、孤独のアリアを歌っているのではなく、何枚も重ねられた窓を次々と開いていくイメージをもっていたのではないか、そのように思ってきた。
そして、私が彼について何かを書こうと思い決めたのは、最近読んだ本の中で彼が次のように語っているのを知ったからである。

1962年に発表されたインタビューで、バーナード・アズベルからロマン派についてたずねられているところの一節。

BA:それを弾くことは、ロマン派のレパートリーのほかの曲をあなたが弾くきっかけとなりますか?
GG:ブラームスの間奏曲をまるまる一枚作ったばかりですよ。ブラームスの間奏曲のこれまでで最もセクシーな演奏です。
BA:「最もセクシーな」とはどういう意味ですか?
GG:即興的な雰囲気が出ていると思うのです。これまでのブラームスの録音にはなかったものではないでしょうか。これはまるで―私の意見ではなく、友人の指摘ですが―私は本当は自分のために弾いているのだけれど、ドアが開け放しになっている。そういう演奏なのです。
忌み嫌う人もたくさんでてくるでしょうけれど、しかし―
BA:?しかしあなたはとても気に入っている?

「グレン・グールド発言集」みすず書房 p203

そう、私が彼の演奏に感じていたものは、ブラームスに限らず、この「ドアが開け放」されているということだったのだ。バッハ、ベートーベン、リヒアルト・シュトラウス、シベリウス・・・。

作品の構造を見きわめることは、演奏の構成を選択することである。解釈ではなく、いま・ここに生きているものとして、たとえ300年前の作品であっても、いまに生きるものをそこに見いだすことにほかならない。古典といわれるどのような芸術作品でも、人をひきつけるものがあるとすれば、それは「いま・ここ」につながる一筋の螺旋―表現の歴史―があるということである。

主旋律の背後に控えていた旋律にあらたな息吹を吹き込むこと、といえるだろうか。
グールドの左手がそうであるように。

他の参照文献:「バッハの風景」樋口隆一 小学館