概念を育てる

英語の単語学習に始まって、語順、文の要素、文型やさまざまな文法概念の獲得を目指しつつ、一方では実践的な会話例文のやりとりを積み重ねる。その成果を見込むためには、ふだんの学校での授業時間だけではなく、個人の領域での学習時間がたくさん想定されているはずである。
一朝一夕で概念が獲得されるわけもなく、実践的訓練もまた課外活動として地道な努力が必要とされるだろう。英語に当てられる時間には限りがあるので、できるだけ効率よく学習するためには、生徒の中に、日々何かが育っているという感覚が生まれるようにしなければならない。
ただ問題集をこなす、文法書を読む、会話文を繰り返し練習するだけでは無理がある。量ではなく質が問われなければならない。概念形成と、生きた表現に絶えず触れることを並行して行うことが必要であると言えるだろう。

私たちの文法書からの引用になるけれど、

「 at  〜に

I met him at Tokyo Station.  私は彼に東京駅で会った。」

といった例文と説明がわかったからといって、atの概念がつかめ、
使えるようになるわけではない。

「文の要素

主語:動作をする人(もの)のこと。日本語では「〜は」「〜が」がつく」

この説明だけで、英語の「主語」がわかるわけがない。

ふつう、こうした説明内容を理解させるためには問題集が与えられる。
同様の形式の文にたくさん当たれば、パターンとして了解できるようになるのではないかと。

しかしパターンとの出会いという帰納法的な方法では、個別の知識の暗記に留まりかねない。概念が育つためには、「前置詞って、こういう感じか」とか「主語というのはこういう集まりのことか」というように、それぞれの「〜らしさ」の発見が不可欠だろう。

こうした類概念はコンテキストのある文にたくさん触れることで育つことが多いのではないか。つまり、あたかも実際の出来事であるかのような場面での使用を必要とするだろう。なぜなら、人が何かを了解するためには、頭だけではなく実際の経験が不可欠だからである。経験というのは五感で感じ取ることであり、対象との相互的な関係が結ばれて初めて、それと正面から向き合ったと言えるからである。英語という言葉の記号としての体系と、どこまでも(実践者としての)日本語話者であるという生徒との間には断崖がある。
そこを架橋するものはなんであるか、ということを問い続けることが、私たちの使命ではないだろうか。