なぜかくも音読にこだわるのか

運動会のプログラムを母親と、太郎にとってはおばあさんとが見ていて、母親の方が言う場面。

あ)太郎が今から100メートル競走で走るのよ
い)太郎は今から100メートル競走で走るのよ

(あ)では、小さい頃ひ弱だったあの太郎が、あるいはあなたの孫のあの太郎が、というように太郎自体への意識があり、(い)では、幾つもあるプログラムの中の100メートル走、というようにプログラムへの視線が感じられる。どの競技にも登場しなかった太郎は一体何に出るのかしらね、そういったおばあさんの心配に答えているとか。

これを語り手(親)のおばあさんという聞き手に対しての関係意識から言い換えると、(あ)では「太郎」に対しての共同の思いが前提となり、(い)では、「プログラム」を同時に見ているという共同性が存在する。

この二つを英語にするときは同じ表現となるだろう。
そこでは話し手と聞き手との共同性云々は消えて、Taro will now run in the 100 meter dash.となり「が」と「は」が融合する。
もちろん英語話者といえども、同じ場面、同じ心理を持っての語りかけはあるはず。それらは消えてどこへ行ったことになるのか?
音声的な相違として現れているはず、というしかないだろう。
‘Taro’や’100 meter dash’の箇所での発声、アクセントの違いとして。
英語は日本語以上に音声が運ぶ意味が多様で、多層化していると考えられる。
日本語話者が助詞にこめる自身の「思い」、「表出の意識」が、英語では音声表現の相違となって現れるのではないか。

英語の音声がなぜ大事かといえば

聞き取れるとか、正しい発音かどうかなどと問う以前に、音声がそのまま語り手の「表現」となっている度合いが日本語以上にあるから、そう言えるだろう。
従ってそこにはいわゆる文法としてとらえきれない、目に見えない〈文法〉として表現されていると考えられる。そこに見本の音声を真似ることの大事さがある。そしてその文章はいうまでもなく、背景の場面、コンテキストと密接に関係する。

逆にいえば

Taro will now run in the 100 meter dash.をカタカナ読みしたり、テンポ、リズム、アクセントなどを無頓着に読むということは、「は」と「が」の違いを無視することに等しい。
英文法や問題集に登場する一つの文は、その原義だけさえ押さえておけばいいとなるのかも知れないが、実際の表現の中の一文は、必ず聞き手を想定した語り手の思い、気持ちが表出されるので、原義以上の意味の広がりを有している。聞き手は頭で意味だけを受けとっているわけではない。
その場に存在する身体すべてで意味を受け止めているのである。
だからこそ会話が成立したり、語り手の言葉のニュアンスを取り違え、誤解したりするのである。

音読はまず何よりも、ネイティブが読む見本音声をまねることから始め、最後は自分の気持ちを込めての音読に終わるべきである。
日本語に置き換えられた意味を汲み取り、場面を想像できたとき、”I AM THE TIGER.”という短い一言が生き生きと聞こえてくると言える。
物語を劇化することは、一番有効な手段だと言える。出演者が空間を共有することで、各生徒の物語へのイメージがしっかりと構築されるからである。
イメージが構築されるということは、作品内のどの文章も生き生きとして生徒の心のうちにしっかりと入り込める。つまり英文を自分のものにすることができるということである。英文を自分のものにする、ということは、そこで知った知識と密接な関係を結べるということにほかならない。