新高1からの新教科書採用2
文科省は、指導要領に基づいて学校の授業が行われることを望んでいるわけですが、現実の高校は千差万別であり、英語コミュニケーションといった基礎的な分野で躓いていることなどは想定されていません。しかし方針として、CEFRに基づいた英語力を目指し、実践的な英語力の獲得と、自分の主張、判断等が論理的にできることが期待されていることは明らかであると思います。
私たちができることには限りがあります。これらの分野全てをカバーすることなど到底できません。しかし、基礎力をつけ、英語感覚を身につけさせることができれば、その力は必然的に論理力の強化にはつながると考えられます。なぜなら、日本語と違って、主語を常に必要とし、その後に述語動詞を配置する英語は否応無しに論理的な構造を生み出していると思われるからです。また共有感があるところでは主語も言わない私たちの言葉と違って、常に主語を立て、また人称代名詞を多用する英語表現は、他者との関係を強く意識していると言えます。こうした人間関係の捉え方の日英の違いは厳然とあります。従って、物語が中心の語順訳を通して、英文を理解する活動は、言葉と場面と人間関係を一つのものとして意識せざるをえませんので、大いに役立つものと思われます。そこで培われた英語力は論理力にもつながるでしょう。
たとえ中学生、高校生でも、本来は短いものよりは、長いもの、説明文よりは物語のほうが絶対にその効果は高いと思われます。入試などでは、資料、グラフ、地図といった材料をもとに、その内容や状況を把握できるかが求められる場合が多いですが、論理や判断力という前に、トラになって
“I AM THE TIGER.”とあたかもトラのように言うことができることが大切だと思います。このIは、日本語で私たちが「わたし、俺、わし、わたくし」と色々に使っている主語とは異なり、誰でも(大統領であれ、労働者であれ)が自分のことを指すのに使います。つまり英語でIと言う時と、日本語で相手に合わせて「わたし」と言うときでは、微妙なずれがあると考えられます。「わたし」=Iとは必ずしも言えません。Iとして自己表現する力は、英語の持つ論理的性格に近づけることになるように思われます。子供に対して、自分のことを「私」と言わずに「お母さんは」と言う日本語の世界は、西洋から見ればとてもユニークなのではないでしょうか。
「論理・表現」の活動では、微細な文法にこだわることなく、その実用の中で理解させなさいというのは正論だとは思います。しかし、それができるためには基礎力を身につけ、モノマネ段階で終わらせないだけの十分な時間が必要でしょう。いい加減な発音やテンポ、イントネーションで終始して終わりではなく、自分の言葉のようにランぺルやヘンゼルになって表現するほうがずっといいに違いありません。学校では英語を使っての授業を推進するように言われていますが、曖昧に笑い、分かったふりしてすませることがないことを、願うばかりです。
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