時制考1
過去時制では、多くは動詞の場合、語の後にedをつける、という規則自体はとてもシンプルには違いない。しかし、ある割合の生徒は付け忘れることが多いと聞く。
なぜなのか?
私たちの英文法では過去ということ自体の説明もなく、そっけない。すこし詳しい参考書になると、横に直線が引かれてあり、真ん中あたりの一点が「現在」を示し、左側に「過去」、右側に「未来」と書かれているのを見かける。時間というのは一方向に流れていき、たとえば左から右へあるいは背後から前に向かって進み、将来に向かって進みながらたえず過去を生み出していくように描かれる。過去は振り返るものであり、未来は視線の先にあるかのように説明されることもある。
さて、付け忘れの主な理由は二つあると思う。ひとつは、特に子どもたちにとっての時間は、過去・現在・未来というように線型をなしていないように見受けられ、したがって「過去」という概念があまり育っていない場合があるだろうということ。もうひとつは、英語は主語と動詞はセットになり、主語が動作や状態の時制に直接に結びついている。それに対して日本語では「が」と「は」が述語に及ぼす影響が微妙に異なり、過去を表す助動詞「た」の働きが非常に広いため、「過去」時制という意識が持ちにくいことにあると思われる。
1)太陽が東の空を昇り、西側の山々を赤く染めた。
2)太陽は東の空を昇り、西側の山々を赤く染めた。
1は客観的な叙述の感が強い。対して2は、その様子を見ている話し手の存在やその視線が思い浮かぶ。「〜は」で始まる語は主語とは言えず、話題の取り上げであるという考えに従えば、そのまま英語になりうるのは1だと言えそうである。2の「太陽は」と述部の「染めた」の結びつきは弱く、話し手の心情や判断がにじみ出ている。それをわざわざ過去であるとか完了であるとかなどと、無理に「時制」の枠にはめる必要性がないように思われる。英語は「時制」を必要とするが、日本語はそれとは異なる表現法を持っているということになる。英語はとにかく主語と動詞が関係付けられているだけで、その間に「は」や「が」があるわけではない。
人を待つときは時間が遅い。遠足に行く明日はなかなかやってこない。反対に遊びに夢中になっていると驚くほど速く時間が過ぎる。こうしたことはだれでも経験していることに違いない。時間は七変化で意外とそれがなんであるかを言うのはとても難しい。
たとえば小学生が夏休みに宿題で日記をつける。たいていは「・・・た。」で終わる。1日の終わりに思い起こす。あるいは残りすくない休みにあわててまとめて書くこともあるだろう。「今日はとても暑かったのでプールに行きました。K君も来ていました。二人で水のかけっこをしました。つかれました・・・」。思い出しながら書いていると、出来事はすぐそばにやってきていまのことのように感じるかもしれない。プールの水の匂いを感じ、いまも太陽はギラギラしている。子どもは幼いほど時間を直線には感じないだろう。円のように自分を包み、伸び縮みし、すべての出来事がつながり、ここから先は過去のことというふうには捉えないだろう。
先生から英語の場合「過去」は動詞を「過去形」にすると教わる。意味は「〜した」「〜だった」となる、と。だれもが同じように時間を感じ、場合によっては直線で表された時間を共有しているかのように説明が進んでいく。そんなところに、躓きのもとがありそうである。(時制考2に続く)
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