「現代の国語」

学校では端末が子供ひとり一人に配布され、ネットを介した授業が増えていきます。スマホのアプリを利用すれば、本をもたなくても学習できるというように、勉学のスタイルは大きく変わろうとしています。近々教科書も紙からデジタルに変わると聞いています。ITの発展は、マニュアルにそって知識という情報をいかにスマートに届けるかという考えをいっそう促進するように思えます。学力とは知識の獲得量と、どれほど論理的に考え判断して自己主張ができるかである、そのような価値観が広がり始めています。しかし、教育は本来、個々の子供の成長やこころの広がり、深まりに沿いながらなされるべきものです。生きる、成長するという過程は総合的なものです。国際的な社会の存在以前に、個々の、日々の生活があります。そこではオールラウンドな成長と共に見識の獲得が必要となります。しかし、世の中はなんだか経済優先ムードが充満し、自国よりも国際的なことが強調されている感があります。

来年度の高校教科書「現代の国語」の採用数の一番多かった教科書には、文学作品の掲載が多かった出版社のものが選ばれました。以下そのことで波紋が起きているとの、「教育新聞」からの引用です。

「来年4月から高校の必履修科目となる「現代の国語」の教科書を巡り、混乱が起きています。新学習指導要領では国語の必履修科目を「国語総合」から、「現代の国語」と「言語文化」に再編。文科省は教科書検定に当たり、「現代の国語」で扱う題材は評論や法令、企画書など「論理的・実用的な文章」で、小説など文学的な文章は想定していないと説明しました。こうした方針を受けて、1社を除いた出版社は小説の掲載を見送りましたが、小説5作品を載せた教科書会社の教科書も検定に合格。さらに占有率トップとなりました。
末松信介文科相は12月10日の閣議後会見で、「『現代の国語』に小説が盛り込まれることは、本来、想定していなかった。学習指導要領の趣旨が十分浸透していないということであり、教育現場にはもう一度丁寧に話を下ろしていきたい。誠にもって、説明が不足していた」と文科省の説明不足にも原因があるとの見方を示しました。また、小説を掲載した社は「教育現場の先生から、『現代の国語』の授業の中で小説を扱いたいとの強い要望が多く聞かれたことを踏まえた」と説明。採択結果には「『教育現場の声に応える』という当社の編集方針が広く支持されたものと考えている」とコメントしています。」

もしかすると、文科省(相)の発言はなにかもっと詳細に説明すべきことを落しているのではないかと思われるほど、おどろきの発言です。文学にはまるで価値はなく、指導要領はその必要性を言っていないと言わんばかりです。人の心の成長や、社会での他者との関係のとりかたのを学ぶのに文学の世界は欠かせません。その基礎があっての「論理的・実用的」文章の獲得でしょう。人一人が体験したり、出会ったりする関係には限りがあります。なんの波風も立たずに育った子供がいたとしたら、世間に出てからはショックの連続でしょう。人の心の機微に気づかずに大きくなり、他者の気持ちを想像さえしないで済ますわけにはいきません。もしそうだとしても、ある時、何かがきっかけとなり、ある文学作品に出会い、「こういうことも人には起こりうるのだ」、「このようなことを、こんなふうに感じる人もいるんだ」といった経験をすることがあるでしょう。論理的であるということは、非論理的な世界が厳然と存在するという認識の下でこそ、意味を持つのではないでしょうか。文学の世界は決してすべてが過去のものとなって、歴史の彼方に追いやるべきではありません。表層的なところは古臭くなってしまったとしても、底辺には人間として共通するものが描かれているはずです。そしていうまでもなく誰でも、先人の言葉を受けて今があることに例外はないのですから。令和が他の時代と断絶してあるわけではないのはもちろんです。
個体発生は系統発生を繰り返していると言われます。胎児がオギャアと言って産まれ出てくるまでに、生物の全ての発生過程を経過すると言われています。過去と切れて今はなく、他と切れて私があるわけではありません。「私」の表現である文学の世界は、いつも現在に通じるものを持っていますし、他と通じるものがあるからこそ、読まれ続けてきたと言えるのです。少々寂しい世の中になりつつあるかなと、感じる昨今です。

 

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