新規開講教室のご案内
2021 年 6 月 25 日なお、コア式英語教授法で教室を開くことに興味をお持ちの方を対象としたテューターオリエンテーションも随時開催しています。
詳しくは0120-86-4886(渋谷本部校/フリーダイヤル)までお問い合せください。
またテューター募集のサイトのフォームからもお申し込みいただけます。
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メジャーリーグ・パドレスのダルビッシュ有投手や青山学院大学陸上競技部が自分たちのデータをオープンにしている。以下NHK放送予定の案内から引用。すでに放映されたのでご覧になった方もおられるでしょう。
34歳で進化を続けるダルビッシュ有投手。箱根駅伝で“常勝軍団”に成長を遂げた青山学院大学陸上競技部。背景にあるのは、データの“オープン・シェア革命”。武器である変化球の投げ方や長距離に特化したトレーニング方法を惜しげもなく一般公開。そこから多くの選手が技術を学び、さらに進化した技術を学ぶという“成長の好循環”が生まれているのだ。また横浜DeNAでは、元選手中心だった人材登用を“オープン化”し、統計学やAIの専門家などを積極活用、選手強化に乗り出している。いかに個人や組織の能力を伸ばすか。企業の管理職や子育て中の親にもヒントとなる“スポーツ界の革命”
個人や団体の技術は、ややもすれば自分たちだけの財産とみなされ、公開されない。周りの者はそれを「盗む」のである。自分の技術と照らし合わせ、想像し、いろいろと試みることになる。競争社会ではそれは自然なことだし、技術は自分の生活の糧となる。
しかし、いまオープン・シェアといって、自分の技術、知識を公開する機運が高まっていると聞く。みんなでそれらを高めあったほうが、社会としての価値、財産を多く生み出すという考えだと思われる。現代社会はさまざまな格差を生み出しており、今の政治、経済の仕組みにどこか納得しないものを感じる者にとって、なにか先行きに明るさを感じる話である。持続しうる社会を目指すと叫ぶのであれば、こうした技術や知的財産の公開こそが求められるのではないか。自分たちが乗り越えられない壁を、他の者が超えることはいくらでもありうる。そのことで自分たちもその先へ進むことができるのだから。
一子相伝という考えがある一方で、伝えていきたいのに後継者がいないという話も聞く。さまざまな伝統工芸の世界が、世の中に必要とされないというだけで廃れていく。ある技術はもしかしたら全く異なった業種の世界では必要かもしれない。売上が落ちた時計や車の部品メーカーの技術が他の商品製作で花開いたという話もある。もしすべての知識や技術が公開されれば、誰彼なくそれを活かす方法を考え始めるだろう。その結果をすべての人に還元するという考えであれば、そこに見出せる可能性はとても大きい。
今世界は個々の国ごとに苦しみ、あえいでいるように見える。いわばかつての日本の鎖国状態に似ていなくもない。世界全体としての効率ということを考えれば、国家を開いてしまえと言いたくなる。全体より個々を優先させるという考えがある限り、それは無理な話なのだが、全体を優先させるという考えもまた、過去に大きな失敗をしていることを思えば、なるようになるしかないか、と思ってしまう。
ダルビッシュ有投手や青山学院大学陸上競技部の監督の考えが突然生まれたとも思えない。
私たちのだれかれなく、無意識のうちに求めていた結果である、と言えなくもないだろう。
とすれば、このオープン・シェアという考えは、スポーツ界に限らず、今以上に広がっていくかも知れない。もちろんそうした活動もどこかで壁にぶつかるだろうが、そこでまた、ひとは考えることになるだろう。
各教室でモデルレッスンを行っています。お気軽にお問い合わせください。
誠に勝手ながら、4/29(木)~5/5(水)は休業とさせていただきます。
上記期間中にEメールでいただきましたお問い合わせにつきましては、5/6(木)より順次対応させていただきますので、予めご了承くださいませ。
コア英語教室渋谷本部校も上記期間は通常授業、モデルレッスンをお休みさせていただきます。
ご不便をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。
(渋谷本部校0120-86-4886 平日午前10時〜午後15時)
各教室でモデルレッスンを行っています。お気軽にお問い合わせください。
私たちは試験問題や最近の傾向を気にして、新しい英文、話題に関心を持ちがちだけれど、いつの時代の英語も、それまでの歴史を含みながらその時まで続いてきた言葉である。新しい文体や現在の会話文も例外ではなく、その中に今に至るまでの言葉の歴史を蓄積した上に成り立っていると言えよう。どのような英文も「英語」であるかぎり、それらを音読(朗誦)すれば、英語の骨格にあたるものに触れることができると言えるだろう。英語力というのは文法の知識量でも、会話力でもなく、ここで言われているところの「人の生きた身体を通して語られる言葉が、もう一人の身体へと伝えられていくプロセス」を経て手にしたものだと言えないだろうか。
日本の古典を朗誦し、日本語という言葉の歴史をかいくぐることで「心の力につながって」いくとすれば、その力は英語を朗誦することへの関心にもつながっていくかもしれない。明治以降、言文一致運動や教育改革を経、また翻訳文化の影響のもとに変化してきた言葉遣いを私たちは強いられてきたと言える。現在では、古典の言葉は英語に比することができるくらい遠い言葉である。
日本語の古典の朗誦を徹底して行えば、言葉には本来、音として伝わってくるものがたしかにある、ということに気づくに違いない。文法規範を通してではなく、身体を通して何かを理解し引き継いでいくことが言葉の原点である、そう言えなくもないのだから。「身体と身体とのあいだの文化の伝承」という考えは、さまざまな示唆に富んだ表現であると思う。学習という意識での音読ではなく、英語の音自体を楽しむということもまた大切ではなかろうか。
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4月より各教室で新年度クラスがスタートしています。
「コア式語順訳」と「音声学習」は「読む力」だけではなく「聴く力」「書く力」「話す力」の4技能をバランス良く伸ばすことができる基礎学習法です。
この方法は小学生から大人まで一貫した学習法で、いつでも、誰でも学習をはじめることができます。
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「た」に興味が湧き、日本語の助動詞を調べて見る。教科書や参考書では「た」を単純に過去や完了と説明して済ませているものもあるが、たとえば中学1年の教科書(教育出版)では、「活用のある付属語を助動詞と言います。助動詞は、述語の意味を詳しくしたり、話し手の判断や気持ちを表したりします。」と書き、例文では「森さんは 昨日 帰国した そうだ。」という例をあげている。そこでもう少し詳しく知りたいと「助詞・助動詞の辞典」(森田良行・東京堂出版)を見る。そこではいきなり最初に、「た」は過去や完了を表すのではない、と書かれていて、「〜た」の意味と機能、という箇所では次のように説明されている。
過去・完了と言われる日本語の助動詞「た」も、命題の中で直接「時」を表しているわけではない。—略— 話者の主観的な認識を添える「た」は、ただそれを個別的な事象として振り返り、間違いなくそのような事実が成立しているのだと判断する。したがって、話中の「時」がたまたま過去である場合には、その事象を振り返って、その成立を確かなものと認識する結果、「回想」の意味合いが「た」に付随することとなる。一見、「以前」ないしは「完了済み」の事柄を表すと思われがちな「た」ではあるが、そのような客体界の状況叙述ではなく、主体の確認意識の現れ、その副産物としての「回想」意識と考えてよい。極めて主体的な心理作用の言語化なのである。
説明の例文として使われているものとして、次のようなものがある。
「来週試験あったかしら?」「明日いちばんはやく来た人が窓を開けなさい」
どうやらこのように「た」を使う日本語話者にとっての「時間」は、欧米語の「時間」認識とはまたちょっと違うように思われてくる。
ある色を「赤」ですと言われてだれもが頷いたとしても、同じ色を見ているかを決めることができないのと同様、「過去」と言われても、その時間感覚は人さまざまであると想像できる。だとすれば、たしかに習ったのに、しかも簡単な規則としてのedを知っているのに、書き忘れる、ということはありうるのだと思われる。
英語の「現在」という概念は、「過去」や「未来」という概念があって初めて成立する。様々な時制が入り混じる物語作品に触れてこそ私たちの学習は成立する。音読して時制を感じ、態や法を感じる。英文自体を感じる。感じるという経験の中から規則性が見えることもある。ひとはいつも成長途中であり、何かを感じ取ることから時間や世界を理解し始めるにちがいない。頭が悪いから、あるいはケアレスミスしてedを付け忘れるのではなく、彼(彼女)は私たちがとっくに忘れてしまった時間の花園に今もいる、そう考えてもいいような気がする。
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過去時制では、多くは動詞の場合、語の後にedをつける、という規則自体はとてもシンプルには違いない。しかし、ある割合の生徒は付け忘れることが多いと聞く。
なぜなのか?
私たちの英文法では過去ということ自体の説明もなく、そっけない。すこし詳しい参考書になると、横に直線が引かれてあり、真ん中あたりの一点が「現在」を示し、左側に「過去」、右側に「未来」と書かれているのを見かける。時間というのは一方向に流れていき、たとえば左から右へあるいは背後から前に向かって進み、将来に向かって進みながらたえず過去を生み出していくように描かれる。過去は振り返るものであり、未来は視線の先にあるかのように説明されることもある。
さて、付け忘れの主な理由は二つあると思う。ひとつは、特に子どもたちにとっての時間は、過去・現在・未来というように線型をなしていないように見受けられ、したがって「過去」という概念があまり育っていない場合があるだろうということ。もうひとつは、英語は主語と動詞はセットになり、主語が動作や状態の時制に直接に結びついている。それに対して日本語では「が」と「は」が述語に及ぼす影響が微妙に異なり、過去を表す助動詞「た」の働きが非常に広いため、「過去」時制という意識が持ちにくいことにあると思われる。
1)太陽が東の空を昇り、西側の山々を赤く染めた。
2)太陽は東の空を昇り、西側の山々を赤く染めた。
1は客観的な叙述の感が強い。対して2は、その様子を見ている話し手の存在やその視線が思い浮かぶ。「〜は」で始まる語は主語とは言えず、話題の取り上げであるという考えに従えば、そのまま英語になりうるのは1だと言えそうである。2の「太陽は」と述部の「染めた」の結びつきは弱く、話し手の心情や判断がにじみ出ている。それをわざわざ過去であるとか完了であるとかなどと、無理に「時制」の枠にはめる必要性がないように思われる。英語は「時制」を必要とするが、日本語はそれとは異なる表現法を持っているということになる。英語はとにかく主語と動詞が関係付けられているだけで、その間に「は」や「が」があるわけではない。
人を待つときは時間が遅い。遠足に行く明日はなかなかやってこない。反対に遊びに夢中になっていると驚くほど速く時間が過ぎる。こうしたことはだれでも経験していることに違いない。時間は七変化で意外とそれがなんであるかを言うのはとても難しい。
たとえば小学生が夏休みに宿題で日記をつける。たいていは「・・・た。」で終わる。1日の終わりに思い起こす。あるいは残りすくない休みにあわててまとめて書くこともあるだろう。「今日はとても暑かったのでプールに行きました。K君も来ていました。二人で水のかけっこをしました。つかれました・・・」。思い出しながら書いていると、出来事はすぐそばにやってきていまのことのように感じるかもしれない。プールの水の匂いを感じ、いまも太陽はギラギラしている。子どもは幼いほど時間を直線には感じないだろう。円のように自分を包み、伸び縮みし、すべての出来事がつながり、ここから先は過去のことというふうには捉えないだろう。
先生から英語の場合「過去」は動詞を「過去形」にすると教わる。意味は「〜した」「〜だった」となる、と。だれもが同じように時間を感じ、場合によっては直線で表された時間を共有しているかのように説明が進んでいく。そんなところに、躓きのもとがありそうである。(時制考2に続く)
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